昭和40年02月02日  朝の御理解



  お互いの信心を支えておるもの、いったい何が、自分の信心を支える事になっておるのだろうか。自分の信心を支えておるもの、それは信心を支えておると言う事は、自分の心の中にある平生心、喜びとそういう喜びを支えておるもの。不安のない平生心をいつも支えておるもの。ある人は祈念力、ね、一生懸命御祈念させて貰う。どうも不安でたまらん。心配でたまらん。
 さあ御水の一つも頂かしてもろうて、ひと修行さしてもろうて、そして御神前にぬかずかしてもらう。と繰り返し繰り返し、大祓いを奏上さしてもらう。繰り返し繰り返しその不安である心配である事を、神様に祈りを捧げる。御祈念をさして頂いておる。御祈念をさして頂いておれば、心が平生である。安心であるという人もありましょう。皆さんどうですか、不安な時に一生懸命御神前に向かって、御祈念をさして貰う。それでも不安なとき、水でも掛かって御祈念をしてご覧なさい。
 心の中に平生心が生まれます。その祈念力その祈念が私の信心を支えておる。自分の心の中に。昨夜の御月次祭の時にも申しましたように、何か一つの教えがです。私の心をキャッチしておる。私の心をつかんでおる。是だと信心は是だと。例えばその教えがです。私の心の中に生き生きとして、しかもそれを行じておる事に、いとまのない信心。ね。それが私の信心を支えておる。
 私はあの思うんですけども、本当を言うたら心配のないものはありますまいと思う。矢張り言うならば不安な日々であるだろうと思うんです。例えば子供が学校へ行っておると、さあ無事に帰って来る顔を見なければ安心がいかない。そんな事があるでしょうが。遠くに離れておる子供なら、子供。今日も平穏無事でおかげを頂いておると思うけれども、心の中にかすめるもの、不安な思いにかられる事がございますでしょうが。
 まあ私申しますなら、その不安又は焦操のお互いが日々だと、そこに私共信心がありその信心によって私共の、その不安が焦操が平生心まで高められて、又は私の心の中にこの喜びがある限り、ね。神様の御守護を受けておると言う事をです、心に実感さしてもろうておると。そのだから不安な日々であるはずの不安な日々がです、信心によって支えられておる。信心の内容はどの様な事かと言うと、まっ色々その人によって違うでしょう、それと私は祈念力と、ね、祈念力をもって。
 本当に大事な事です。祈念力を一生懸命御祈念さして頂いておりますと心の中に不安がなくなる。そうだ神様の御守護を受けておるんだから。子供が海水浴に行って帰ってこない。終のバスになっても帰ってこない、家内が心配しだした。私はそれを知らなかった。まっ私がさがろうとしておりましたら、豊美がまだ海水浴から帰ってきませんよ、いわゆる不安である。遠くにかすめる。
 毎日毎日新聞紙上をにぎわしておる水禍ね、水の海水浴場あたりで様々なその溺死、溺れ溺死になどが、その毎日報道されておるから、でその一番最悪な事を考えるんですね。初めの間は差ほどでもなかった。段々段々その不安が募ってく。家内がそう言って御取り次ぎ頂きますから、神様にその事をお願いさして頂いて、所が『海の中でも、海の底でも、神様の懐ぞ。』と言う様な事を頂いた。
 私の心はも一辺にそう不安がなくなった。はあそうですか。ね、その時私の心を支えたものは、その神様の一言その御教えであった。いや心配いらんぞと。無事帰って来るぞと言われなければ、これが平生でないと言う事だけでもないのです。ね。例え海の底に沈んでおっても、そこは天地の親神の御懐の中だと分からして貰う時ですたい。心の中に平生心が、それから2・30分したら帰って参りました。
 ですから私共どういうその不安、心配な時でもです、そうして神様の御教えをです、心の中に頂いて、その不安焦操という時にです、安心が出来れると言う事が、信心さして頂くものの有難さ、教祖の神様は「心配する心で信心せよ。」とこう仰る。 昨日の晩だった、もう夜の御祈念が終わってからだったでしょう、もう昼だったでしょうか、久留米の石井さん所から電話がかかってきて、〔石井喜代司さん方〕竹内先生とこのお電話は何番でしょうか、ちゅうてから電話かかった。
 話を聞いてみると、もう何時間前に伊万里に着いておらなければならない筈のに、着いていないという。行き先に電話かけたけど、まだ着いとらんという。ひよっとすりゃ竹内先生の所に寄ってるかも知れない。あちらに電話番号があるなら教えてくれと、もうお母さんが非常に気に病まれる方ですものですから心配されるちゅうことですから、あっちこっち電話で聞き合わしておられる。で私が申しました心配はいらんて。
 おかげ頂く心配はいらんて。けれどもそう言うた、言うてしもうたんじゃ、その興がないというか、そう言うたからと言うて、安心のいく人ではないと言う事。であの非常に子煩悩なんですよね、あちらのお母さんは、私が心配いらんと言うとる様な事で、安心出来る人じゃないのです。私が思うとったね。心配する心で信心さしたら、その方がおかげだとこう思ったから、まあ心配さしたちゃよかよか、と言う様な意味の事で話した事なんですけれども。
  夕べ御月次祭に参って見えて、もうおかげ頂いてから、すぐ帰って参りましたと。ね、まっその間心配しておられたか、又はまた神様に一生懸命おすがりして安心されたか、ね。どうか解らんに致しましてもですね、心配いらんといわれても、矢張りなら心配はそのまま、先生がああ言うて下さるからと、安心する人もあるかもしれんけども、それでもやっぱ心配し、その上心配する人もあるけれども、そういう時です、心配する心で一つ信心さしてもらわにゃいけません。
 そしてその不安がなくなる所まで、おかげ頂けなければいけない。私は信心生活というのは、大体それだと思うのです。ね、信心しとりますから安心しとりますと、こう言いきれる人はそう沢山はないと思うんです。日々が不安けれどもその不安な事が日々がです、ね、不思議に私共の祈りの力と、御祈念をさして貰うと言った様な事によってです、それが払われる。心の中に平生心が頂ける。
 いつも私の心を支えておる所の、御教えというものがです、ほっと心の中に頂かしてもろうたらです、まあ極端な例ですけれども、ね、海の底でも神様の御守護の中であると言う事が、本当に分からして頂けるほどの信心が出来たら、もう安心。私共そのそういう平生心を求めて、安心のそういう心を求めて信心修行がなされなければならない。御参りはしとるけど不安で不安でたまらん。
 ならば修行不足と悟らして貰って自分で工夫した修行が必要なのである。「徳のない間は心配をする 身に徳を受ければ心配はない。」と、おっしゃるそう言う様なです、日々私共心の上を祈りによって教えによって、ね。信心の様々な修行によって私共の心が支えられておる。そういう日々が繰り返される様な信心さして頂いてです、私初めて安心のおかげというのが頂けるのであるとこう。より身に徳が付いてくると。それだけいつも自分の心の中にです。
 和賀心を頂き続けていきたいための精進、私の心をいつも教えが支えておってくれるというほどに、教えを頂き続け思い続け、行じ続けておるという信心。絶えず祈っておるという信心。祈りに明けて祈りに暮れておると言う様な中から、生まれて来る所の平生心。私の心を支えておる。ちらっとかすめる心配、又は不安焦操というものがです、これは修行不足ぞと思うてそこに、ささやかな修行でもさして頂くと不思議にその、焦操が不安が心配が消えて無くなるそういう日々。
 それを私日々信心の稽古をさして頂いておりますというのは、そう言う事ではなかろうかとねそれがです、ね。積もり積もって、たまりたまって私は身に徳を受ければ心配はない、徳のない間は心配をすると言う様な御教えが、成程はっきりして来るんじゃないかとこう思う。自分の心をいわば支える何物もなくて、もう神様に愈々の時には、お願いすればよかけん。まっ信心しよるけん。
 まっ信心しよるけんもう本当に安心な事ですと、是はあまりもの信心だと私は思う。なら例えば例えば申しますと、祈りに明け暮れておるというか、教えが私の心をいつも支えておるというかと言う様な、なら日々がです重荷になる様な事では、決してないと言う事です。ね、むしろその方が有難い、いわば神様を身近に感ずる事の出来れる日々なのですから、本当に楽しい有難いという一日で、終わらせて頂ける事が出来るのです。
 そういう信心がです5年続き、10年続いていくうちに昨夜の御理解の前に丁度、申しますならです10年と信心が続いたら、我、我とわが心を、拝まれれる様な祀れれる様な、おかげが頂けるのじゃないかとこう思うのです。どうぞ皆さん、不安のない一日でありたい、それを願わねばならないでしょう。ならば、それがです、ね、例えば申しますような、それはそれぞれの角度。
 それぞれの信心の程度によって違うこともございますでしょうけれどもです。何か自分の心をいつも支える所の教えと言うものが、皆さんの心の中に、もっとこう頂けておらなければいけない。ね。同時、私は祈ると言う事。どんなに不安であっても御神前に本気で座らせて頂いたらもう安心、と、おかげを頂ける様なおかげを頂きたい。ね、さあそこんところが稽古。
 で出来んなら一つお水の一つでも頂いて、ね、御神前にぬかずいてご覧不思議に安心が頂けます。ね。又は自分の心の中のささやかな修行でも神様に誓わせて頂いてです。御祈念をしてごらん、不思議に心が平生になってまいります。その平生な心安心な心、その喜び支えておる、そのものその喜び支えられておる所がその喜びがです、又次のおかげを受ける、受け物になる事は勿論ですね。
   おかげ頂きました。